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残るは言葉ばかりなり。


by fly-high0320

かむがへる。

武士道、を読み始めました。新渡戸さんの。

うーん、我ながら王道というか。
カレッジに30の日本人の人がいて。貸してもらいました。
この人建設会社に勤めてて、海外で国連とかの公的機関(あれは公的か???)から発注を受けてたって人で、なかなか話してて面白いです。しかも赴任地が南ア東ティモールとかの危険地域でw。ぱっくんなら読んどかないと、って言われて、貸してくれました。

正直今まで学術書(にあたるかな?)を勉強以外で読んだことがなかったので、通して読むのは初体験です。高校までは小説ばっかり読んで、大学ではレポートやらサークルで必要なデータばかり漁ってたから、丸々一冊読んだ本っていうと数えるほどしかないってかないかもなんだよね。
これはもともと自分が知識偏重なのも影響してて。思想とか理論とか、そういう知識の底に横たわる概念理念を重視しなかったのがあるのよね。
その中でも、武士道みたいな精神論は殆ど敬遠してたとこがあって。
だって精神とか思想なんて理論化できるわけないじゃん。尤もらしく説明したフリしやがってコノヤロウ。なんて思ってたわけです。文化論とか人類学、哲学宗教学宗教学心理学みたいなのに対しても、かな。お前ら愛を理論化するって正気か!?みたいな(笑)。

しかしですね。
武士道、面白いです。

自分がぼんやりブログとかで考えてたことと案外似ているところがあって。ミーハーなんでくらっときちゃうわけです(笑)。
いや、自分の考えが基本にあって、それを正当化してくれるから楽しいんだろう。
例えば、知識をひけらかして自分の考えを持ってないやつと話して、知識だけじゃ何の役にも立たない、とか思うわけです。大事なのは物事を適切に捉えて理論だてることで、関連するファクトを言えばいいわけじゃない。確かに知識は必要なんだけど、それを入れていく過程で目的を取り違えちゃいけない。とか。勿論激しい自戒を含めて。

それを新渡戸さんは、学識豊かに、多少衒学趣味だろってぐらいのベースで語ってくれるわけです。以下引用。

『孔子孟子の書物は、(学問に志す)青少年の第一の教科書であり、また大人たちが議論し合う場合の最高の権威となるものであった。しかしながら、この二聖人が著した古典を読み、その言葉だけを知っている者は、世間から高い尊敬は払われず、「論語読みの論語知らず」ということわざがあるぐらいで、そのような者はかえってあざけられた。典型的な一人の武士(西郷南州)は、「文学の物知りは、書物の虫である」と言い、またある人(江戸時代の学者三浦梅園)は、「学問は臭い菜のようなものである。よくよくその臭みを洗い落とさなければ食べることはできない。少し書物を読めば少し臭くなり、よけい読めばよけい臭くなる。困ったものである」といった。その意味するところは、知識がもし、それを学ぶ者の心に同化せず、その者の品性に表れることがないならば、本当の知識とはいえない、ということである。たんに知識だけの人間は、それ専門の機会と同じことであると思われた。知力は道徳的な感情の下位におかれた。人間も宇宙も、霊的であり道徳的であると考えられた。「宇宙の進行には道徳性を有しない」と言った、(イギリスの文学者)ハクスレーの断定を、武士道は容認することは出来なかったのである。
 武士道は、そのような種類の単なる知識を軽んじた。知識は終極の目的ではなく、智恵を獲得するための手段として追求すべきであるとした。したがって、その域に到達できない者は、求めに応じて詩歌や格言を吐き出すだけの便利な機械にすぎないとされた。それゆえに、知識と、人生における知識の実践は同一視された。このようなソクラテス的な教義の最大の説明者は、(東洋においては)倦むことなく知行合一を唱えた中国の哲学者、王陽明である。』
(新渡戸稲造『武士道』講談社 インターナショナル株式会社、1998年、50頁、52頁)

長い。。。あと引用の正しい書き方誰か教えてください。
けどこの辺を読んで、まさにしっくり来ちゃうわけですよ。
余談…というか殆どトリビア的な説明の仕方で、無理に高尚に理論立てようとしてないのもまたステキです。
特に知行合一。飾り物の知識ではなく、自分の深いところまで入って、行動理念の一部になるような知識の得方。まさに自分が考えてたことをきれいにまとめあげてくれてて。しかも王陽明に知行合一と来れば世界史フェチとしてはたまらんわけです。

しかしそうやって考えさせてくれたおかげで「なんで勉強してるんだろう?」なんてありがちな疑問にまた頭を突っ込んでしまったりするわけですが。それはまた今度。
by fly-high0320 | 2007-06-26 23:01